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● 友達ごっこ --- 梅雨とアイロン ●

 アイロン側面のランプが赤く光った。スチーム口からは蒸気が立ちのぼる。こうなったらもう十分に暖まったという証拠。
 時計の針は、まっすぐ六時を指している。
 鼻唄を歌いつつ、わたしはゆっくりとアイロンを滑らせ、夏服のブラウスについた皺を伸ばしてゆく。
「よし、きれいになった」
 ブラウスを両手でぴんと張るように持ち上げて、思わず一言。
 布地を裏返して、もう一度アイロンを滑らせていく。小さな皺ひとつ残らないように、気をつけながら。
 うちの学校の夏服はかなり可愛い。半袖ブラウスの袖が絞ってあって、丸みのある形になってるんだ。それから、濃緑のチェック柄のプリーツスカート。襟回りには、それと同じ生地で作ったリボンを付ける。
 明日からは衣替え。この夏服を着て学校に通うことを、どんなに夢見ただろう。
 ふと顔を上げると、窓の外では灰色の薄闇の中をしとしとと雨が降っている。窓枠に絡んだ蔦の葉も、雨に濡れたせいか大きく垂れ下がって。
 もう梅雨が始まったのかもしれない。けれどアイロン掛けをするには都合がいい。適度に湿気があると、布の皺がよく伸びるから。
 でも、明日には晴れるといいな。
 雨が嫌いなわけではないけれど、やっぱり太陽の光を浴びると、元気になれる気がする。
 唐突に、机の上で充電中の携帯電話から、ミッキーマウスマーチが流れ出す。誰からだろう。アイロンの電源を切り、手を伸ばして電話を掴む。
 携帯のディスプレイを見て、一瞬固まってしまった。ただでさえ電話は苦手なのに。知らない番号、だったんだ。
 深呼吸をして、頬をぱちぱちと何度か叩く。落ち着け、落ち着かなくちゃ駄目だぞ。指の震えを押さえることもできず、やっとのことで通話ボタンを押した。
「あ、永久(とわ)?」
 安心してやっと小さなため息がでる。明るいトーンの声――ルームメイトの池沼(いけぬま)蓮子(れんこ)――がわたしの名を呼んだ。小椋(おぐら)永久、それがわたしの名前。漢字で書くと、男の子みたいになる。「ながひさ」とか「えいきゅう」って読まれることが多くて。
「……なんだ、蓮子か」
「なんだとは何だよ。ったく、可愛くねーの」
 電話の向こうから、少し拗ねたような声が響く。思わず噴き出してしまいそうになるのを必死で堪えた。
「それより、用件は?」
「あ、それなんだけど」
 一転して蓮子の声のトーンが明るくなった。……嫌な予感がする。
「私、今日は子猫ちゃんとこに泊まってくから、巡回、誤魔化しといて」
 子猫ちゃんというのは蓮子独特の言葉で、『恋人』を意味するんだ。とは言っても、彼女の恋人はすぐに変わってしまうけれど。蓮子と寮の同室になって、三ヵ月目に入る。でも彼女の恋人は、わたしが知ってるだけでも、もう十人目になる。男の人もいたし、女の人もいた。そういうのがあまりいいことじゃないってことは、わたしも分かってる。けれど人付き合いが至極苦手なわたしには、そういうのって少し羨ましい。
「今日も、だよね。……蓮子は寮に戻ってくる日のほうが少ないから」
「しゃーないじゃん。どういうわけか愛されちゃうんだから」
「……そっか」
「ちょっと、ここ、つっ込むとこだって」
「……ごめん。わたし、冗談通じないから」
「謝る必要はナイって。あ、……子猫ちゃんがお風呂から出てきたみたい。切るから」
 返す言葉もないうちに、電話は切れてしまった。台風みたい。
 とりあえず、アイロンがけを再開。……と、携帯を置いて右手でアイロンを持った途端のことだ。再度、部屋中に軽快にミッキーマウスマーチが鳴り響いた。
(何か言い忘れたことでもあったのかな?)
 仕方がないから、アイロンはアイロン台に置いて、も一度携帯電話を取る。
 けれど二小節程流れたところで、曲は途切れてしまった。携帯のディスプレイを覗き込むと、メールマークが付いている。メールなんて、実家から振込の連絡がある時位しか来ないから、同じ着信音にしてあったんだけど。でも今は、仕送りの時期じゃない。月によっても違うけれど、大抵はお父さんの給料日前後に振り込まれるから。
 でも、だとしたら、誰からなんだろ? 頭の中がハテナマークで一杯になってしまう。
 家族以外で私のメールアドレスを知っているのは、この世の中に二人しかいない。その内の一人である蓮子は、携帯電話を持ってない。「んなの持ったら、ずっと鳴りっぱなしでウザイじゃん。私は誰にも縛られたくないの!」……だそうで。確かに蓮子みたく交流関係が広いと、逆に不便なのかもしれない。
 それから、も一人。
「…………(いさ)()
 その名前を声に出して呟いた途端、心臓の一番奥の奥が、ずん、と揺さぶられるのがよく分かった。……忘れたつもりでいたけれど、忘れてなんかいない。ううん、忘れられる筈が無い。
 窓ガラスに雨粒が当たり、窓が小さく揺れる。その音でやっと我に返った。……今は、感傷に浸ってる場合じゃない。こんな風にどうにもならないことを考えるより先に、真実を確かめてしまえばいいんだから。
 すっかり熱くなってしまった頬を右手で思い切り抓って、左手で携帯のメールボタンを軽く押す。
 メールは無題になっていた。も一度ボタンを押す。そして出てきたメールの内容に、……わたしはどうしたらいいのか、今度こそ全く分からなくなってしまった。
「何、コレ」
 何度も何度も、緑色に光ったディスプレイを覗き込む。目を近づけたり、遠ざけたりして。けれど、それは見間違いでもなんでもなかった。
『蓮子サンへ 好きです、つき合って下さい。哲己(さとみ)
 ……思考回路は完全に停止してしまった。

(どうして蓮子への告白が、わたしの携帯に届いたんだろう?)

 ようやくそう考えられるようになったのは、アイロン掛けを始めてから、時計の長針が二回転以上してからだった。蓮子が居たら、いつもみたく「全く、あんたってトロイんだから!」なんて怒っただろうけど。それ以前に、蓮子が居たらこんなに悩まずに済んだかもしれない。でもそんな諸悪の根源たる蓮子は、今日は帰って来ないんであって……。
「……蓮子が帰って来てからでいいよね」
 それより、早くアイロンがけを終わらせなくちゃ。明日の数学の予習をしないといけないもの。他人のことよりまずは自分のことを済ます、それ位許される筈だよね。
 ……なぁんて、携帯を放り出して、再びアイロンを右手に掴んだものの、
「……気になるなぁ」
 上の空、だ。
 そりゃ、蓮子はもてるよ。凄く。
 ここ数年、日本では二重まぶたが美人の条件みたく言われてる。その点では、蓮子は一重まぶただけれど。派手さのないさっぱりとしたその顔立ちは、綺麗だって心から思える。 それから気さくで、誰にでも臆せず話すことができて。何より、まっすぐに伸ばした背筋がたまらなく格好いい。
 蓮子はわたしの理想そのものだ。
 でも、こんな風に告白を目の当りにしたのは初めてだから。……だから、こんなにも気になってしまうんだと思う。
 差出人の名前は「哲己」になってた。変わった名前だから、高校のクラスメイトの中神(なかがみ)哲己くんだと思ってまず間違いない。いつもクラスの中心に居て、お祭り騒ぎが大好きで。……正直に言ってしまえば、わたしの一番苦手なタイプの人だ。脱色した長髪に真っ黒に日に焼けた肌、おまけにずるずるとだらしなく着こなした制服。地味なわたしとは接点すら無い人だ。ううん、無いと思ってた。
 でも、彼は蓮子のことが好きだと言った。わたしの憧れである蓮子を。
(なぜ、彼は蓮子を好きになったんだろう)
 そう思ったら、自然に携帯を掴み、メールを打ち始めていた。
『今晩は。わたしは蓮子のルームメイトの小椋永久です。中神くんは分からないかもしれませんが、一応あなたと同じS高校一年二組に在籍しています。そんなことはどうだっていいんです。あの、蓮子は携帯、持ってません。お節介かと思いましたが、わたしにメールが届いてしまったので、一応お知らせしておきます』
 すぐにそれを返信した。そこではたと気づく。一体わたしは何をしてたんだろう、って。羞恥と後悔とで顔が熱くなる。
 案の定、窓ガラスに写ったわたしの顔は、火を吹くように真っ赤に色づいていた。
 同時に体の芯は急速に冷めていく。体中の熱という熱が全て顔に集中していくみたいに。 こんなことをしたって変なヤツだって思われるに違いない。第一、相手はあの中神くんだ。明日学校に行ったら、からかわれるかもしれない。馬鹿にされるかもしれない。
 きつく目を閉じ、そのことばかり考える。 その時のことだ。三回目のミッキーマウスマーチが鳴り響いて。わたしは大昔の外国アニメの登場人物さながらに、跳び上がってしまった。
 それは、中神くんからの返信メールを知らせるものだった。
 ……今日は本当に驚くことばかり。いい加減、こう何度も何度もびっくりしてると慣れるものなのかもしれない。それとも緊張の糸が切れたというべきなのか。ともかく、今度は臆す事なくそのメールを開いた。
『小椋さんへ ごめん。まさかこのアドレスが小椋さんのだなんて、知らなかったから。随分と困らせちまったと思うんで、もう一回謝っときます。本当にごめん。
 こんなことを言うのも差し出がましいけど、できたら蓮子サンには黙っておいてくれると幸いです。俺がこんなことを言っても信憑性ゼロだけど、初めて告白したいと思った相手なんで。んなこと書いても小椋さんが困るだけだよな。ともかく、伝えたかったのはそれだけ。お騒がせしました。哲己』
 ……恥ずかしくてたまらない。本人をよく知りもしないのに、見た目だけで人を判断していた自分が。そのメールに書いてあったことは、私の中で勝手に作りあげた中神くん像とは大きく違っていた。
 彼はわたしにとって怖い人じゃない。――それが分かったら、知りたいという気持ちがむくむくと膨らんでいった。彼のことを。それから、彼の中の蓮子のことを。
『再び、小椋です。蓮子には何も言わないので安心して下さい。でも、意外でした。謝らなければならないのはわたしの方です。中神くんがそんなにも真剣に蓮子のことを思ってるなんて、露ほどにも思っていなかったので(ゴメンナサイ)。私も、蓮子のことは大好きです。だからなんだか少し嬉しいです』
 気づいた時は、もう送信した後だった。知り合ったばかりの人――実際は出会ってもう二ヵ月を越えようとしているけれど――に、こんな風に接することができるだなんて。わたしにとっては奇跡みたいなものだ。
 もう、アイロンがけも予習も、どうでもいいものになってしまう。
 数分して、またメールが届いた。今度はわくわくしてそれを開ける。
『小椋さんへ まさか返事が来るとは思わなかったんでびっくりしました。蓮子サンへのことは、クラスの奴らにも誰にも言えないでいたんだ。からかわれることがわかってるんで。でも、ばれてしまったとはいえ、小椋さんには普通に話せるのが自分でも意外です。
 んと、小椋さんさえよかったら、もう少し話聞いて貰っていいかな? 哲己』

 ……

 それから、中神くんと何度かメールのやりとりが続いた。内容は殆ど、蓮子のこと。――中神くんが蓮子を気になり始めたのは、五月に一緒に選挙管理委員をした時のことだ、とか、その時彼が票の一部を無くしてしまったけれど、蓮子は一言も責めずに見つかるまでずっと捜してくれたんだ、とか――。
 わたしには凡そ縁のない話だから、わくわくして彼の話を聞いた。ミッキーマウスマーチが鳴り響くのが――メールが届くのが、楽しみで楽しみでたまらない。
 それから、思った。わたしもこんな恋愛がしたいな、って。蓮子みたく、こんなに真剣に誰かに思って貰いたい。中神くんみたく、真剣に誰かを好きになりたい。羨みというよりは、純粋な憧れ。
 外はいつのまにか雨が止んでしまったみたい。落ち着いたというより渋い、濃紺のカーテン――蓮子の趣味だ――を閉じた。
 柱時計を見ると、もう深夜といっても差し支えのない時間帯になっていた。途中、巡回の寮母さんが点呼に来たから、十時を越えたのは分かっていたけど。
 それにしても時間が経つのはあっという間。 うちの学校は一応全寮制の進学校。だから、寮の規則はそれなりに厳しい。門限もあれば、点呼もある。まあ、「蓮子はもう寝てます」だけで毎回毎回誤魔化せてしまうんだから、本当に厳しいかと言えば、少し首を傾げざるをえなくなってしまうけれど。

 

 夜、というのは不思議なもので、そのころには哲己くんとわたしは、かなり砕けて話せるようになっていた。いつのまにか、中神くんは哲己くんに、小椋さんは永久ちゃんに呼び名まで変わって。昼間のわたしには想像すらつかないことの連続だ。
『でもね、蓮子ったらいつも酷いの。やれ朝の支度が遅い、やれ歩くのが遅いって。いつも怒ってばっかり。わたしのこと、トロイトロイって連呼するんだよ?』
『蓮子サンが連呼……だなんて、うまいなぁ。
 でも、永久ちゃんて本当に蓮子サンのことが好きなんだね。普通、そんなに欠点ばかり指摘されたら、一緒に居るのが嫌になりそうなものだけど』
『さっきのはダジャレなんかじゃないよ。偶然とはいえ、恥ずかしくてたまらない。
 蓮子は、わたしがはじめて自分から話すことができた人だから。嫌いになることなんてできない。蓮子はいつだって、わたしの理想なの。何を言われたって、蓮子が大好き。――こんなこと本人に言っても、「何言ってるの?」なーんてバカにされるだけだけどね』
『何だか妬けるなァ。俺より永久ちゃんの方が、ずっと蓮子サンのこと知ってるみたいで。
 んと、ここでそろそろ打ち止めにしとこっか。楽しかったけど、もう時間が時間なんで。
 永久ちゃんて、思ってたより話しやすいんだね。よかったら、教室でも気軽に話しかけてよ。そのほうが俺も嬉しいし』
 メタルピンクの携帯電話を抱きしめる。
 さっきまで何度も何度も鳴っていた、ミッキーマウスマーチが聞こえなくなったのが、寂しくてたまらない。
 嬉しかったの。哲己くんの言葉が。わたしと話すことが楽しいというその言葉さえあれば、今度こそわたしは、変われるかもしれない。今だったら、どんな人にでも構えずに話しかけることができるような気がする。……憧れの、蓮子みたいに。
 浮ついた気分のままで、アイロンがけを済ませ、お風呂に入った。
 寮の夕食を食べるのを忘れたっていうのに、喉まで嬉しい気持ちが一杯で、何かを食べたいだなんてちっとも思えない。
 二段ベッドの上段に潜り込み、暗闇の中。わたしは蓮子の顔と哲己くんの言葉とを何度も思い返していた。……明日が楽しみだなんて思ったのは、子供の頃以来だった。
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